みゃーくふつ② by Tomoco

みゃーくふつの面白さ。それは未だ定義されていない、生きた言語だということ。滞在先、友利地区の地域の飲み会で、オジイたちの会話を聴く。50代以上の方々はみゃーくふつを第一言語として話している。しかし、これが人によって全然違う。違う同士で通訳なしに話している。あの小さい宮古島に30の言語(方言ではなく!)とさえ言われているほど、ことばが氾濫し、未分化のままにされている、その総称がみゃーくふつ。たとえば、「ありがとう」。近年のみゃーくふつ教科書によれば、それは「たんでぃがーたんでぃ」。ありがとうの気持ちを強く表現するときは「がー」をめっぽうのばす。しかし、友利地区では違う。「たんでぃがーたんでぃ」は人にすまない、赦しを請うという意味があるために、飲み会の席では使わないと言う。ではなんというか。「まいふか」。で、別にオジイがこんどは「まいふか」ではなく「ぷからす」だという。別のオジイは「ぷからす」ではなくて、、、と本当に小説の中のようにおじいたちがどんどんとことばを放ってくる。「では、これはどういいますか」と聞けば、オジイたちが論争になり、結論は出ないし、教えてももらえない。あっているのか、間違っているのか、ではない。その場のシチュエーション、話す相手、そして自分の感情にピタリとあう一語を選び取って話しているのだ。そこで、ことばは記号としてのことば以上の役割を果たしている。現在のことば、ことばの意味を一義に限定して話すことばとは明らかに一線を画している。ほとんど蛸の擬態に近い状態。ことばがことば以外の何物かになっている。

発音もすごい。ドイツ語のような音がある。「す」に「゜」がついた音もある。正確には、みやーくふつにはもともと表記がなく、話されることばであったのが、これも明治以降に日本語の表記をつかって書かれるようになった。この表記を使用したことで、みゃーくふつが保存されることになった一面もあるだろう。言語が保存されるようになること、これも相反する二面。保存されるようになるとき、「ありがとう」は「たんでぃがーたんでぃ」に1語になってしまい、そのほか多くの「ありがとう」たちは死語となっていく。多くのことばたちが通ってきた運命。同時に多くのことばたちが日々生み出されていく。それは悪いことではない。けれど、いったんメインストリームが決まってしまえば、それ以外のことばの出番はなくなっていく。そこに、別のことばがあったことも忘れられていく。

たとえば、日本語の「自然」という言葉。「しぜん」は後から入ってきた概念で、西洋の概念。自然と人間社会が対立する構造。それに対して、古来の「じねん」は、人間社会も自然の一部に内包される構造。考え方が根本から違うのだ。

だから、「たんでぃがーたんでぃ」がメインストリームの「ありがとう」になったとき、「たんでぃがーたんでぃ」が持っていた赦しを請うというもうひとつの側面は失われてしまう。なぜならひとつのことばがふたつ以上の概念をもつことにたいして、現代はそんなに寛容ではないから。劇言語を除いては。

演劇のことばは違う。演劇のことばはいつも多層(であったほしい)。なぜなら、演劇は他者の言語による再表現だからだ。そこでは、ことばは一義的な意味しかもたないことばとして扱われない(ように私は創作する)。それが劇のことばである。

さて、最後に広東語に話をつなげると、広東語はやはり書かれない言語であった。喋りことばであって、書かれるときには中国語の文法をつかって表記するため、喋りことばをそのまま表記することがない。さらには、繁体字の入力に手間がかかるためである。だから、香港の友人たちは常にボイスメールでのやりとりか、英語入力を好み、繁体字の入力については、いったいどうやってPC入力したらいいからわからないとさえ言う。ところが、SNSの誕生で状況が変わってきたらしい。今までは書かれることのなかった広東語が、より自分の感情を表現するために、SNS上で表記されるようになりだした。たしかに、完全に書き言葉でかしこまったSNSでは多くの“いいね!”は集められないだろう。SNSがことばを一元化していく(絵文字だった、なぜあれを理解できるのか本当は疑問だらけのはずなのに)一方で、SNSがひとつのことばを進化させていることもあるのだと、希望もある。

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三線に挑戦する阿児ちゃんとフェイ



 

主催:NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク

平成30年度文化庁アーティスト・イン・レジデンス活動支援事業