<TRA・DIT・ION=超えて・与えられる・もの> by Tomoco

この作業が始まったのはいつだろう。最初は、師匠である佐藤信さんと、香港のダニー・ユンさんの企画“The Spirits Play”(2011年~2013年/1年目は鴎座、それ以降は座・高円寺のスタッフとして参加)だろう。シンガポールの劇作家・郭宝崑が太平洋戦争の体験者たちへの聞き取りを行い書かれた作品。信さんとダニーさんは、能役者、崑劇役者、そして現代演劇の俳優やコンテンポラリーダンサーとともにこの作品をつくりあげていた。

それが、(鑑賞という枠を超えて)初めて“伝統芸能”に触れた体験だったのかもしれない。その時から、香港のアーティストたちとの交流「絶対的」や、2016年度から始まるJCDNのAIRプログラムを通してあまり変わっていない感覚は、能も崑劇も、粤劇も、現代演劇を見ているのと同じように見ているということ。

ただし、これには2つの注釈を。ひとつは、現在わたしたちが現代演劇だと思っているものは、ヨーロッパの古典演劇にもルーツを持つということ。アングラ演劇が歌舞伎による新劇への抵抗を行ったことも、今日開発されている“演劇”らしきものはほとんどすべてが、明治維新から始まる帝国文化受容の一端にいるということ。もうひとつは、この伝統芸能と言われるものと現在の現代演劇・舞踊との根幹にある違いはは、独自の(劇場)空間を持っているかいないかということ。このあたりまでは、2017年4月のダニエル・ユンさんコーディネート(助成:西九文化區)の交流ワークショップ(川口智子、Hugh Cho(Boさん)、Chloe Wong、鵜沢光、辻田暁、Choi Chi Wei、Paris Wong)で体感してきたこと。

それで今回、これまでの交流のメンバーをBoさん以外すっかり変えて、香港からはカポエラとパフォーマンスをするSteve NG、それから映画『十年』の監督のひとりであるWONG Fei Pan。日本からは、パフォーマンスアートで活躍する塚原悠也さんと、現代美術家の阿児つばささん。もちろんプロデューサーである水野さんや協働者であるBoさんの意見を聞きながら、私が一番大事にしていたのは“テキスト/物語”であった。

まず、塚原さん。水野さんの紹で2018年2月のTPAMでContact Gonzoの上演を見る。フィリピンのメタルバンドとのコラボレーションでしたが、即興性を裏打ちするテキストにとても興味を覚えた。質量ともに。ノンバーバルの作品の背景に物語がある、という意味ではなくて、そのパフォーマンスを導くためにつみあげているテキスト。テキスト、コンテキスト、ノンテキスト。とにかく空間には存在としてのテキストがばらまかれていた。

次に、塚原さんが紹介してくれた現代美術家の阿児ちゃん。阿児ちゃんの音威子府での氷の映像作品を見て、今度はストーリーだと思う。今はなくなってしまった過去のものを、再現する/しようとすることによって、ストーリーを編み出す作業。2018年7月京都で阿児ちゃんに初めて会い、作品の背景に持ち込む(科学/歴史的には本当ではないかもしれない)ストーリーの紡ぎ方が魅力的だと思った。

それから、Fei。映画『十年』の監督の中から推薦されたFeiには、2018年9月香港で初めて会う。ドキュメンタリーの視点での作品をつくり始めていたFeiと話しているうちに、パーソナルな物語から歴史を語っていくという方針が少し見えてきた。

宮古島に行ってからいろいろと話をしたSteve。カポエラの歌について聞いていると、歌の中の物語がとても重要であることがわかる。アフリカ大陸から海を渡って南アメリカ大陸へと連れてこられた人々が自分たちの故郷を忘れまいとして歌に込めた物語。

過去の物語を現在へとつなぐもの、それが“言葉”なのだろうか。TRA・DIT・ION=超えて・与えられる・もの。それは、技術ではなく物語、人が生きていくために語られることばなのでは。

香港滞在の2日目に戯曲中心で粤劇を見た。『雷鳴金鼓戦笳聲』。中国の歴史書『戦国策』から趙の国の物語をベースにしたもの。国のために戦争に行く若い青年が出てくる。翌日、メンバー全員が集まり話している中で、この物語に書かれていたことが古いお伽話ではなく、現在の私たちの置かれている状況とかならずしも遠くないということに気づき、「『雷鳴金鼓戦笳聲』やります?」と冗談半分に話していたことが記憶に新しい。冗談半分に、というのは半分は本気というか、その選択肢は0%ではないということです。たとえば、『雷鳴金鼓戦笳聲』をコピーする、という作業の始め方も可能だと思う。ただ、今回の6人のメンバーではその選択はとらないわけで、それはメンバーがテキスト性を持っているというの効果なのではないかと思います。そして、最終的に今回のプレゼンテーションにおいては、その物語性みたいなことは前面には出ていないのですが、私たちの思考と並走する物語のひとつとして、『雷鳴金鼓戦笳聲』もまたアダプテーションされているように私には思えるのです。これが“TRA・DIT・ION=超えて・与えられる・もの”のひとつの形ではないでしょうか。身体を伴い変化TRANSFORMしながら、あるひとつの思考が継承され、その続きのプロセスをつくること。

島から島へと伝わる歌/物語/ことば。次への展開として、そんなキーワードでこの作業をつなげていきたい。

f:id:tomococafe:20190321120053j:plain

毎晩ご飯を食べていたフードコートで最後の朝ごはん

 

主催:NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク

平成30年度文化庁アーティスト・イン・レジデンス活動支援事業